「なんだか色々うまくいかない・・・」「男運がイマイチ」「女難なんじゃ・・・」「恋愛運・結婚運が欲しい」「ここぞというときに力を発揮したい!」「いい加減、こんな自分から脱却したい」「今年はどうやら運氣が悪いらしい」「原因不明な不調が・・・」などなど。。。
人間生きていると、キリがないくらい色々ありますよね。
運氣を上げたい、変化が欲しい!という方への解決法もさまざまですが、まずはその一つとして【寒川神社】に訪れてみるのはいかがでしょうか。
この寒川神社は、神奈川県 相模湾の近くに鎮座ましており、日本唯一の八方厄除けとして有名です。
2023年には、フジテレビ系の番組「突然ですが 占ってもいいですか?」で、有名占術家の木下 レオンさんが毎年参詣する神社として紹介されたそうです。
そのせいか、寒川神社の御朱印帳「うさぎ」を探しまくる人が例年以上に多かったとか(苦笑)。
そんな思わぬところでも全国にその名を広めた寒川神社について、エネルギー感知度が優れ、今まで多くの方の問題解決をお手伝いしてきたゆきんこが、基本的なことからちょこっとマニアックなところまで、色々な角度でご紹介していきますね。
「寒川神社」の読み方と、すごさの秘密
占ってもいいですか、で寒川神社はレオンさんも太鼓判を押されているすごい神社ということがわかりましたが、ゆきんこも実際参拝させていただくにあたり、その秘密が気になります。
ちなみにですが、「寒川神社」の読み方は「さむかわ」になります。
お名前間違えると失礼になっちゃいますからね。まあ、神様的には正直どーでも良い感じですが(むしろ、名前を付けられるのは鬱陶しい感じだったりしますので)、「信仰」という観点からとらえるとものすごーく大事になります。
その辺の話を始めちゃうと長くなってしまうので、今度別途記事で書かせていただきますね。
さて、話を戻しますが、寒川神社には有名人からも「すごい」と言わしめる特徴や秘密があるようです。
その点をゆきんこが、客観的にひも解いていきたいと思いますので、まずは下記のとおり挙げてみました。
❖ 相模國一之宮と称されている
❖ 約1600 年の歴史を持つ
❖ 歴史上の超有名人物たちも参拝していた!?
❖ 日本唯一の八方除の守護神
❖ 少し前まで禁足地であったパワースポットがある
❖ レイラインに位置している
といった感じでしょうか。
それでは、それぞれ簡単にまとめていきますね。
相模國一之宮
そもそも、「一之宮」(読み方は、「いちのみや」)って何?ってことなんですけど、現代風に解釈すると「地域を代表する大きな神社」を指します。
日本史でお馴染みの「戦国時代」辺りまでは、日本は定められた国内の行政区分として「國」という字を使って地域を分けていたんですね。
一之宮は、その國ごとの中で格式が最も高い第一位の神社のことを指します。
各國の國司(中央の朝廷から派遣された行政官)が、相模一帯で最初に参拝する神社として定められたのが、こちらの寒川神社でした。
(・・・朝廷の力が激弱りした戦国時代も、この律令制は守られていたのかな?)
「相模國」って、おおよそ現在の神奈川県から横浜市・川崎市を除いた、日本龍脈の一つである丹沢さんを含んで、相模湾をぐるっと箱根・芦ノ湖のちょい先まで囲んだ範囲だったようです。
ちなみに、一之宮を含む神社の「社格」(神社のランキング制度)は、平安時代に制定されて、制度自体はすでに廃止されていますが、その思想は現在にも受け継がれているようです。
また、その平安時代に制定された「延喜式神名帳」という書物には、こちらの寒川神社は「名神大社」と記されていました。
「明神大社」とは、平安時代に定められた神社の中でも由緒正しく、国の大事に朝廷から神前にささげる供物を奉って臨時の名神祭を行なうことができる靈験にすぐれた神社を意味するそうです。
延喜式神名帳によれば、相模國13社の内、唯一の明神大社とされていて、関東地方の信仰の中心であったことがうかがわれます。
う~む、、、時間の長さ、信仰への数と質、大義名分、これだけでもエネルギーパワーのすごさの理由になりますね!
余談ですが、神奈川県の中で正式に「一之宮」とされる神社は、こちらの寒川神社と、鎌倉の鶴岡八幡宮の2社だけだそうですよ。
「寒川神社」 創建から、およそ1600 年!
実は、寒川神社の創祀年代は、現存する資料に記載はないものの、456 ~ 479 年の雄略天皇の御代(治世)に、神前に供物をささげ、727 年には社殿建立と伝える記録があるそうです。
そこから計算しますと、確かに寒川神社 創建から1500 年~1600 年の年月経過がわかります。
公の記録としては、平安時代に成立された歴史書(撰者;藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)・藤原緒継(ふじわらのおつぐ)ほか)、「続日本後記」(仁明天皇の御代に完成)に、寒川神社の名前が記されているそうです。
なんでも、その時世から、神社の位階(階級?)が、どんどん上がっていったそう。。。
相模國って当時の朝廷にとって、どんな位置付けだったのか、ちょっと興味津々になりますね。
ちなみに、寒川神社が創建された当時(西暦500 ~700 年)は、今より海水準が高く、寒川神社は直接相模湾に面していたそうです。
「寒川神社」参拝者に歴史的有名人が勢ぞろい!?
ここまでのおさらいとして、寒川神社のすごさの秘密が、創建に関しておそらく古墳時代~飛鳥時代までさかのぼり、平安時代にはすでに中央政府である朝廷が認めた靈験にすぐれた由緒正しい神社であるということがわかりました。
ということは、少なくとも平安時代の朝廷からすでに信仰の対象になっていたということですよね。
その後驚くべきことに歴史上の有名人たちも、寒川神社の崇敬者として記録に残っているそうです。
例えば、鎌倉幕府の武家社会の様子を詳細に叙述している「吾妻鏡(東鑑)」には、幕府を開いた「源頼朝」が、尼さん将軍として有名な奥さん「北条政子」の出産間近に、安産祈願に寒川神社へ使者を派遣しているとあります。
源頼朝が、征夷大将軍に任命され名実ともに鎌倉幕府が始まった1192 年には、「神馬」を奉納したともあり、このときも安産行事をされていました。
寒川神社は、歴史的偉業を成し遂げた人物の、安産祈願と出世にご利益を与えたということになりますね!
・・・ちなみに、大きな狛犬(狛獅子?)の横に、「神馬舎」が鎮座ましておられたのですが、こちらは昭和天皇御在位五十年記念として竣功されたそうです。
その後、北条政子の弟(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で小栗旬さんが演じられた)「北条義時」からも、篤い信仰を得ていたそうです。
戦国時代には、「武田信玄」が小田原攻めの際に寒川神社に立ち寄って、兜を奉納したと伝えられています。
一説には、戦勝祈願ともありますが、、、相模川西岸を進軍しているとの記録があるので、小田原攻めの帰路で寒川に寄った可能性の方が高そうだな。。。
奉納された兜は現在、「六十二間筋兜鉢・附金具残闕三種」として県の文化財に指定されています。
・・・戦勝祈願で寒川神社に奉納していたら、小田原攻めは成功していたのかな?
いや~、でも上杉謙信が進軍しながら10万の兵に膨らませても落とせなかった難攻不落の小田原城なので、それでも奇跡が起こらない限り難しかったかも。。。
ところで、武田信玄の小田原攻めの際に立ち寄った温泉、いわゆる「信玄の隠し湯」が神奈川県にあるんです。
しかも、龍脈のある丹沢山に!実は、ゆきんこのいつものパターンであるシンクロニティで、寒川神社参拝後の予定として、その温泉に行ってました(笑)。
寒川神社が、武田信玄の小田原攻めに関係があったなんて、行って来た後に知った!!という、いつものお約束でした(苦笑)。
龍脈の丹沢山から湧き出る「美人の湯」で知る人ぞ知るという、「信玄の隠し湯」ご興味がある方は、こちら>>
話を戻しますね~!
次の大物は、これまた約260年続いた幕府の創始者「徳川家康」。
豊臣秀吉の小田原征伐後に、関東に國変えした翌年、寒川神社に百石の土地を社領として寄進するという朱印状を出していて、それ以来徳川家代々の信仰を得ているとのことです。
歴史に名を刻む、有名な武将や天下人たちまで崇敬者となっている神社というのも、寒川神社のすごさの秘密と言えるに十分ですよね。。。
「寒川神社」は日本唯一の八方除の聖地!
日本全国厄除け神社は多々あれど、「八方除」の守護神を祀っておられるのは、寒川神社のみなのです。
私たち日本人は、「唯一」というワードにグッときちゃいますよね~!
その前に、「八方除って何!?」って話なのですが、、、
八方とは方角を表していて、東西南北、東北・東南・西北・西南の8つを指します。
この8つの方角を基本にして、これに陰陽五行・十干十二支・九星八宮などを配当して、地相・家相・方位・日柄・運勢などの吉凶が判断されているというわけです。
・・・まあ、要するに、「痒いところまで手が届く」的な方位除け・祈祷ってわけですね。
私たちは、あらゆる事象に影響されながら生活しているので、それらを上手く調和・調整して難を予め退けてくれるようなものです。
寒川神社は、現在の皇居である江戸の「裏鬼門」(南西)にあたる方角に鎮座しており、古来から関東八か国の守護神(関八州の守り神)として民間の信仰も集めていたこともあって、独自の祈祷がおこなわれていたということでしょうか。
ここでまた、「裏鬼門って!?」ってなりますよね~。もう、本当いろいろ難しい(笑)。
「鬼門」はご存知でしょうか?
もともとは中国の考え方で、その名のとおり「鬼=邪気の出入りする方角」を意味し、北東を指します。
そして、その北東の反対方角で南西ですよね。
中国の考え方が日本に伝わって安倍晴明で知られる陰陽道に影響を与えたのですが、その陰陽道では、南西も北東と同じく陰陽の狭間で不安定な位置と解釈され、これまた不吉な方角と認定されてしまったんです。
したがって、北東の反対なので「裏鬼門」と呼ばれるようになりました。
つまり、現在の皇居、徳川幕府代々の将軍のお住まいであった江戸城から南西の位置に、寒川神社はドーン!と鎮座ましているので、江戸の守り神として崇拝されていたわけです。
そりゃあ、天下人を狙っていた徳川家康さんは、「百石を与える(からよろしく頼む)ね」となりますよね。
(実際には、江戸のみならず、「関東八か国の守護神(関八州の守り神)」として、当時の関東「相模さがみ・武蔵むさし・安房あわ・上総かずさ・下総しもうさ・常陸ひたち・上野こうずけ・下野しもつけ」全域から信仰を得ていたわけですからね!)
ちなみに、百石を現在の価格に換算すると、、、ググってみたら計算してくださる方がいらっしゃって、どうやら「600万円~1,200万円」の価値になるそうです。
米価で計算するか、金1両の価値で計算するかで、差が出てしまうらしく、、、確かに現在は、お米と金の価値に開きがありますが。
とはいえ、なかなかの寄進であることがわかりますよね。
ところで、江戸は、実は風水を活かした計画のもと造られたって知っていましたか?
中国の長安(現在の西安)を参考に設計された風水都市・平安京は知っている方は多いと思いますが、江戸もかなり意識されていたんです。
・・・平安京は1000年続いて、江戸幕府は260年でしたが。。。
まあ、平安時代には、陰陽師がいたのでその影響も大きかったと言えるでしょう。
その平安京も、実は風水上不備があった(?)とのことで、のちに奇才(天才)安倍晴明が独自の見解を編み出すのですが、その家伝書が子孫の手によって完成しています。
高校生のときに、これをマンガで見て、めちゃくちゃ興奮しました!
売らなきゃ良かった。。。また買おうかな。
・・・高いな、、、電子版便利だけど、エネルギー的にキレイキレイにすれば、こっちでもいいかな。。。
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原作が夢枕獏さんですので文庫でも販売されています。小説派の方はご参考までに。
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おっと、失礼いたしました!
この世界観を共有いただく方がどんどん出てきてくださると嬉しいので、ついつい自分の趣味推しをしてしまいました(汗)
話を戻しますと、上記を読まれた方や、呪や風水に興味がある方は、寒川神社がいかに今の東京(首都)にとっても重要な役割をされているか、ご理解いただけるかと思います!
「寒川神社」最大パワースポットの場所とは?
「寒川神社」最大のパワースポットに関しては、長くなりますので、また別途紹介予定ですが、御本殿の奥に寒川神社のすごさの秘密の源泉と言っても過言ではない場所が存在するんです。
もともとは、「神嶽山の杜」と呼ばれる自然の森林や樹木が生い茂っていた禁足地でしたが、2009年に整備されて祈祷のご利益をさらに強力にするパワースポットとなっています。
残念ながら、今回の参拝では祈祷を受ける必要がなかったらしく、こちらには足を踏み入れる機会がなかったのですが、外からでも素晴らしいエネルギーが感じられました。
こちらの存在を知ったとき、正直唸りましたよ。。。
ご祈祷の効果をあげる緻密な計算と配慮に、めちゃくちゃ驚きました。
でも、本来必要なことなんですよね。
涼しくなったら、是非ご祈祷をお願いし、改めて詳細をご報告させていただきます!
「寒川神社」はレイラインに位置している!
「寒川神社」のすごさの秘密のラストです!
・・・長かった~。。。寒川神社の読み方から始まって、ようやくここまで辿り着きました(笑)。
今日は富士山の日、これはいつかの春分@七面山 pic.twitter.com/1X2cscG3EL
— The_white_gekko (@Taketakeo6423) February 23, 2022
とてもステキな写真を公開してくださったので、拝借させていただきました。
春分の日に、七面山の敬慎院から見た富士山の有難いお写真です。
ちょうど、富士山の山頂から太陽がお顔を出していますね。思わず写真といえど、拝みたくなります。
七面山と言えば、お釈迦様の晩年8年間で説かれた教えであり、かつ集大成としてご存知の方も多い法華経の聖地で、標高1982メートルの美しい靈山です。
鎌倉時代に日蓮聖人が身延山に久遠寺を開きましたが、身延山の扇状に佇む七面山は、身延山久遠寺のちょうど「裏鬼門」に位置しており、身延山と同じくに聖地として開けた山です。
ここでも出た!裏鬼門(笑)
この七面山は、現在でも徒歩でしか登詣できない、昔から修行の山として知られていますが、富士山からの御来光を拝むために、多くの行者や参拝者が訪れ、とりわけ春分・秋分の日は賑わいます。
このように、特別な日に、特別な場所、いわゆる聖地同士が一直線に並ぶ現象を「レイライン」と呼ぶそうです。
1921年に、英国の考古学者が太古の遺跡配置が直線に並ぶ現象を発見し、一気にその「光の線」という解釈が広まったようです。
では、寒川神社に戻りますね。
上記の現象を寒川神社に当てはめると、寒川神社と聖地同士の真上を太陽が通るということになります。
特別の日とはいつか?太陽のエネルギーの一年のうちの転換期である、春分・秋分・夏至・冬至の日が該当します。
で、寒川神社の他に、春分・秋分・夏至・冬至に太陽が真上を通る神社もしくは靈峰と呼ばれる山などを探して、ラインができるのは、、、
春分・秋分に日出、日没
出雲大社ー元伊勢ー伊吹山ー富士山ー寒川神社
夏至に日没、冬至に日出
諏訪大社ー寒川神社
諏訪大社は、春分・秋分に日出、日没/夏至に日出、冬至に日没/夏至に日没、冬至に日出、すべてにいづれかの聖地とつながっていました。
「元伊勢」は正直他にもいくつか伝承があるので、まあ置いておくとして、「伊吹山」はヤマトタケルノミコト(日本武尊)が山の神様に挑み返り討ちにあった伝説の山というのが面白いです。
ちなみに、諏訪大社の御祀神「諏訪大明神」は建御名方神(タケミナカタノカミ)で、出雲大社の大国主(オオクニヌシ)の次男と言われていますよね。
この流れだと、寒川神社が「出雲系」と認識されてもおかしくない。。。
じつは、このレイライン説ですが、とあるサイトを参考にして、自分でも地図とにらめっこしながら定規片手に考察してみたんですが、神社の御祀神とつなげると、どうも風水の流れからか、日本の呪(結界)が見えてきてしまって、深みにはまっていきそうで(こじつけようと思えば、いくらだってできてしまう不思議な日本)、中途半端ですが切り上げることにしました。
ある意味、悠久のときともいえる壮大な計画のもと、太陽と信仰というエネルギーの相乗効果によって、日本の在り方を決めていたレイライン上の神社・・・
日本各地に存在していた、天と地をつなぐ最強の巫女「卑弥呼」の存在があれば、レイラインを創って、信仰というエネルギーを集めて、本土に結界・呪を施すことは不可能と言えなくもないのでは?
・・・そこまで壮大なロマン(妄想)が展開されていなくても、寒川神社はエネルギー同士のつながりで重要なポジションに鎮座ましているというだけでも、すごい神社ということがわかります。
壮大なロマンの仮説がチラチラ頭の中をよぎるうちは、寒川神社にはまだすごい秘密が隠されているような気がしてなりませんが。。。(苦笑)
とりあえず、ここで一旦止めておくことにします!
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